
はじめに
幸運なことに、現在は妻と二人、穏やかで自由なリタイア生活を送っています。 一般には激務と言われるコンサルティング業界に長く身を置きながら、燃え尽きることもなく、こうして平穏な時間を持てていること。それは幸運もありましたが、振り返ってみれば、親記事で触れた「意思決定の罠」を、いくつかの局面でうまく回避できていたからかもしれません。
しかし、正直に告白すれば、順風満帆なキャリアだったわけではありません。私自身もまた、知らず知らずのうちにバイアスのかかったレンズで世界を見ていました。私が少し早めのリタイアを選んだ背景には、仕事に邁進するあまり、「若いうちにもっと遊んでおけばよかった」という、微かな、しかし消えることのない後悔の念があったことも事実です。
本稿では、私がどうやって「比較」や「浪費」の波を泳ぎ切り、なぜ「今」リタイアという決断を下したのか。その裏にある、極めて現実的な資産の考え方をお話しします。
「比較の罠」の回避:視点を社内に向けない
私がいたコンサルティングファームは、昇進競争が非常に激しい世界でした。 同僚は優秀なライバルばかり。「誰が先に出世した」「あちらの方が評価が高い」。そんなことばかり気にしていたら、精神が持ちません。
私がこの環境で幸福に働き続けられた理由は、意識の矛先を少し変えていたからです。 比較の対象を「社内の人間」ではなく、「目の前の顧客」にしていました。
「昇進すること」「同期に勝つこと」を目標にすると、それは終わりなき消耗戦(地位財の競争)になります。しかし、「顧客にどれだけ貢献できたか」を自分の評価軸に据えると、不思議と社内の競争が気にならなくなります。 結果として仕事の質も上がり、精神的な平穏も保たれました。「比較の罠」は強力ですが、見る方向を変えるだけで、その影響を小さくすることは可能です。
「適応の罠」の回避:生活レベルを上げない
収入が増えても、生活レベルをむやみに上げなかったことも、今の自由を支えています。 これは私が禁欲的だったからではなく、単に高級時計や外車といった「見栄」にあまり興味が持てなかっただけなのですが、結果としてこれが功を奏しました。
人間は贅沢にすぐに慣れてしまいます(適応の罠)。一度上げた生活水準を維持するために働き続けることほど、不自由なことはありません。 周囲が消費に走る中、淡々と資産を形成できたおかげで、「いつでも辞められる」という選択権(自己決定権)を常に手元に置くことができました。
55歳からの「感性の減価」
そんな私ですが、仕事が好きだったこともあり、現役時代は「遊び」を後回しにしがちでした。 「旅行は引退してからの楽しみでいい」。そう考えていました。いわゆる「現在バイアス」です。
しかし、ある時、ハッと気づかされたのです。 「遊ぶ能力(楽しむ感性)」は、55歳を境に急激に減価していくという事実に。
久しぶりにテーマパークに行っても、スキーに行っても、若い頃のように心が弾まない。海外旅行に行っても、感動より移動の疲労が勝ってしまう。 お金(金融資産)は運用すれば増えますが、感性(体験資産)は加齢とともに確実に目減りしていきます。30代で感じるパリの感動と、60代で感じるそれは、物理的に同じ場所でも「受け取れる総量」が減ってしまうのです。
私が少し早めのリタイアを決断したのは、仕事が辛かったからではありません。 「これ以上、感性が鈍ってから自由になっても、人生の投資対効果が合わない」と判断したからです。 残された「まだ心が動く期間」を最大化するために、キャリアという収入源を手放し、時間を買い戻しました。これは私なりの、極めて合理的な経営判断でした。
結論:「余裕」こそが、罠から身を守る唯一の防具
最後に、最もお伝えしたいことがあります。 これら3つの罠(比較・適応・現在バイアス)は、脳の仕組みであり、誰にでも襲いかかります。
しかし、この罠が牙を剥くのは、決まって「余裕がない時」です。
時間やお金に切羽詰まっていると、人は短期的な利益に飛びつき(現在バイアス)、手っ取り早い承認を求めて他人と比べ(比較)、判断を誤ります。焦りは脳の機能を低下させ、私たちを罠へと誘導するのです。
私が資産を形成し、時間を確保した本当の理由は、贅沢をするためではありません。 「人生の余裕(バッファ)」を持ち、正常な判断力を維持するためです。
余裕さえあれば、立ち止まって考えることができます。「これは比較の罠ではないか?」「今を楽しむべきではないか?」と。 幸福な人生に、派手な成功は必要ありません。ただ、自分の心を守れるだけの「余裕」を持ち、罠を回避し続けること。その静かな防御こそが、あなたを納得のいく人生へと導いてくれるはずです。
親記事の紹介
親記事となる『【幸福への意思決定】運ではなく「選択」が人生を決める』では、私たちの幸福を阻む「3つの罠」について、より体系的に解説しています。
- 比較の罠: なぜ、私たちは他人の芝生が青く見え、終わりのない競争に巻き込まれるのか。
- 適応の罠: なぜ、手に入れたはずの幸福感はすぐに消えてしまうのか。
- 現在バイアス: なぜ、頭では分かっていても、将来のための投資を先送りしてしまうのか。
これらのメカニズムを理解することは、あなたの人生を「運任せ」にしないための必須教養です。本コラムの実践編に対する「理論編」として、ぜひ併せてご一読ください。仕組みを知れば、対策が打てます。あなたの人生の主導権を取り戻すための、確かな地図がここにあります。

